
1976年に署名された日豪友好協力基本条約は、相互信頼を成文化し、共有の方向性を示しました。半世紀前に条約が目指した以上に、今日の日豪両国は緊密であり、戦略的にも足並みをそろえています。こうした日豪関係の根底にあるのは「人」です。人々の繋がりが条約だけではなしえない信頼と理解を生み出しています。なお本コンテンツは、2026年6月17日より8月1日まで外務省外交史料館展示室にて開催された特別展の内容をもとにしています。


1976年6月16日に東京で署名された日豪友好協力基本条約は、日豪関係の歴史的な転機となりました。当時のオーストラリアのマルコム・フレーザー首相と日本の三木武夫内閣総理大臣によって署名され、1977年8月20日に発効しました。
この条約は、両国間で初めて結ばれた正式な協定の一つであり、経済的相互依存の進展と、地域における共通の利益を背景に、関係を強化したいという両国の思いを反映したものです。この条約は、貿易を越え、経済や政治、科学、社会、文化といった幅広い分野での協力を含む二国間関係の包括的な枠組みを構築し、平和、相互尊重と協力に基づいたパートナーシップの礎を築きました。
この条約は、日本の高度経済成長期に、石炭、鉄鉱石や液化天然ガスなどの天然資源の貿易が両国間で拡大していた時期に署名されました。オーストラリアは日本を主要な経済的パートナーとしてだけでなく、地域の安定にとって重要な戦略的パートナーとして位置付けていました。
署名から数十年にわたり、この条約は日豪関係の礎として重要な役割を果たしてきました。これまでに同条約が促進してきた主な事項は以下の通りです:
同条約はオーストラリアと日本のゆるぎない友好関係の象徴であり、両国間の連携と協力を導く指針として機能し続けています。
Image courtesy of National Archives of Australia, NAA: A6135, K18/11/77/2.「この条約は、私たちが日本に寄せる深い敬意と、これからの未来を日本と共に歩むことへの揺るぎない信頼を示すものです。友好協力基本条約の署名は、日豪関係がより一層深まったことを示し、将来の発展に向けた確固たる基盤を与えるものです。」
1976年6月17日基本条約署名式 フレーザー首相のスピーチより
Image courtesy of National Archives of Australia, NAA: A6135, K18/11/77/2.


日豪関係は、民主主義、人権、自由貿易とルールに基づいた国際秩序といった共通の価値観に基づいています。このパートナシップは両国の戦略的及び経済的利益にとって不可欠です。
両国の関係は、日本がオーストラリア産の石炭や羊毛を輸入開始し、日本人移住者がオーストラリアの農業や海事産業に貢献し始めた1800年代後半までさかのぼります。
第二次世界大戦による混乱を経て、両国の外交関係は1952年に再び樹立されました。1957年に署名された日豪通商協定は戦後の力強い貿易を、1976年に署名された日豪友好協力基本条約はより一層深まった繋がりや投資の促進、人的交流を象徴しています。
高官レベルの往訪は、日豪関係の強化において重要な役割を果たしてきました。2014年以降、両国の首脳による相互訪問が、特別な戦略的パートナーシップの一環として、実施されています。日豪外務・防衛閣僚協議(2+2)や経済産業・貿易大臣間の経済対話など、定期的な閣僚級の会合は両国間の協力を一層強化しています。
近年の日豪関係は多面的であり、堅調な貿易・投資、国防・安全保障分野における強固な協力、そして深い文化的な繋がりに支えられています。こうした関係の深さは、「特別な戦略的パートナーシップ」によって象徴されています。
両国は、米国との同盟関係、平和で安定し、繁栄あるインド太平洋地域への貢献といった、戦略的利益を共有しています。両国の経済は補完的であり、開かれた貿易と強靭なサプライチェーンに支えられています。
最近では、2025年大阪・関西万博への参加を通じて、オーストラリアのイノベーション、文化、そしてビジネスの力強さを世界中から訪れた皆様に紹介することができました。これにより、日本とのつながりはより一層強化され、現代的で多様なオーストラリアの姿を伝える貴重な機会となりました。




豪日交流基金(AJF)は、日豪友好協力基本条約が署名された1976年に設立された、オーストラリアで最も古い二国間文化交流基金です。当初はオーストラリア政府からの支援を受ける独立した非政府組織として発足し、両国の相互認識や理解をより一層深めるとともに、二国間の人的交流の基盤を築くことを使命としていました。
AJFは1980年に東京事務所を開設し、1990年に在日オーストラリア大使館内へ移転しました。現在、AJFはオーストラリア政府外務貿易省の一部として活動しています。
設立以来、AJFはビジネス、学術、文化、そして科学の各分野で意義深い交流を促進してきました。また、日本人学生がオーストラリアで研究に取り組めるよう奨学金を提供し、次世代リーダーの育成にも注力してきました。こうした奨学生の多くが、その後オーストラリア研究をけん引する研究者へと成長しています。同時に、AJFは日本語教育への支援を通じて、オーストラリアにおける日本との関わりを一層強化してきました。これにより、新たな世代の日本研究者や日本語専門家の育成にも大きく寄与しています。
AJFは毎年、オーストラリアと日本の双方で幅広い活動を支援する助成金プログラムを実施しています。助成金プログラムの受賞者やそのネットワークは、両国の人的交流の深さを体現するとともに、将来の新たな協力や発展の機会を切り拓いています。


「豪日交流基金の支援のもと、50年以上にわたり育まれてきた日豪国民間のかけがえのない友情を祝し、次の世代がさらなる相互理解と協力を深めていけるよう促していきたいと思います。」












「食」は長年にわたり、日本とオーストラリアを結ぶ「美味しい」架け橋として親しまれてきました。大阪の路地にあふれるメルボルン風コーヒーの香りから、高級寿司店の厨房で扱われる南オーストラリア州産の魚介類、そしてチェーン店の牛丼に使用されるオーストラリア産牛肉まで、食を通じた交流は私たちの日常の中にしっかりと根付いています。これらの食材と、そのひとつひとつに宿る物語は、両国が貿易だけでなく、味覚や創造性、そして良質な食材への共通の評価を通じて密接につながっていることを示しています。
コシのあるもちもちした食感で全国的に親しまれる讃岐うどん。しかし、その要となる小麦にオーストラリアが深く関わっていることは、あまり知られていません。
1957年に日豪通商協定が締結されて以降、オーストラリア産小麦の輸入は大幅に増加しました。約50年前、香川県の製粉業者や製麺業者は、良質なうどん作りに理想的なバランスのグルテン強度とでんぷん組成を備えているオーストラリアン・スタンダード・ホワイト(ASW)の使用を開始しました。
オーストラリアの生産者や輸出業者は、日本の消費者や製麺業者の厳密な要望に応えるため、ASWの品質を長年にわたり改良してきました。現在、ASWは讃岐うどんの主要原料として使用され、日本を代表するソウルフードを支えています。
小麦以外にも、オレンジ、ブドウ、アボカド、そしてマカダミアナッツなど、日本の食卓は多くのオーストラリアの農産物で彩られています。そして、中でも象徴的な存在なのは、オーストラリア産牛肉です。1953年に対日輸出が開始されて以来、オーストラリア産牛肉は家庭料理から給食、レストラン、ホテルなど、様々な日常で親しまれるようになりました。また程よい霜降り肉を提供するため、オーストラリアの生産者は、牧草と穀物の両方を飼料とする穀物肥育牛の生産に踏み切り、日本の消費者に好まれる風味と食感を実現しました。
これらの食材は、品質と安全性、オーストラリアの生産者と日本の消費者の協力によって育まれてきた日豪の食のパートナーシップの信頼性を体現しています。コミュニティを繋ぎ、友情を育むと共に、食卓で生まれる絆の力強さを実感させてくれるのが食の存在です。そして、日本とオーストラリアにとって最も大切なつながりのひとつであり続けています。

オーストラリア産小麦(ASW)は、世界の小麦品種の中でも際立って日本の伝統食であるうどんの嗜好に合う食感特性(適度な弾力性のグルテンたん白質と、もちもち性となめらかさに優れるでん粉)を持っており、昭和40年代以降、オーストラリア産小麦の輸入量は急増し、日本で有名なさぬきうどんはもとより、全国のうどんの主原料となっています。




第二次世界大戦中、多くのオーストラリア軍人が日本各地の収容所に戦争捕虜として抑留されていました。軍人の多くは海外の戦場で捕らわれた後、日本へ移送され、軍需工場をはじめとする戦時産業での労働を割り当てられました。厳しい規律、栄養失調、厳寒の気候、そして空襲に伴う危険性といった過酷な環境により、終戦までに192名のオーストラリア人捕虜が日本で命を落としました。こうした犠牲者は横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地で埋葬されています。同墓地にはアジア各地で命を落とした連合軍の戦争捕虜、または戦後の占領軍として日本に駐留中に死亡した人々も共に眠っています。毎年4月25日には、オーストラリアおよびニュージーランドの在日大使館によって、追悼と慰霊のためのANZACデー式典が墓地で厳粛に執り行われています。
直江津市(現在の新潟県上越市)に当時あった収容所では、およそ300名のオーストラリア軍人が抑留され、60名が命を落としました。戦後、収容所職員8名が被収容者の処遇をめぐって戦争犯罪で起訴され、有罪判決を受けました。現在、上越日豪協会が和解の促進において中心的な役割を果たしています。元戦争捕虜となったオーストラリア人やその遺族との交流、教育活動、そしてコミュニティー主体の追悼行事などを通じて、上越日豪協会は両国が共有する歴史を継承し、次世代へ平和の大切さを伝え続けています。
和解への取り組みは、戦時中日本人捕虜の収容所が置かれていたニューサウスウェールズ州カウラでも進展しています。1944年8月5日未明に、カウラ日本人捕虜集団脱走(通称カウラ事件)として知られる大規模な未遂事件が発生し、234名の日本人捕虜と4名のオーストラリア軍人が命を落としました。戦後数十年にわたり、日本人墓地の手入れを地元の退役軍人が率先して引き受け、思いやりと和解への強い思いを示してきました。彼らの取り組みは、カウラ日本人墓地を始め、交換留学プログラムや、名高いカウラ日本庭園および文化センター設立へと繋がる基盤を築きました。
こうした平和への強い思いを背景に、カウラと上越両市は2003年に平和友好交流意向書に署名しました。現在、毎年執り行われるカウラ事件追悼式には市民が参列し、地方自治体関係者や中学生を含む継続的な交流を通じて相互理解が深まり、歴史の教訓が尊厳と敬意をもって次世代へ継承されています。

直江津捕虜収容所跡地に平和記念公園が造られてから30年が経過し、2025年10月18日に日豪の遺族関係者13名を迎えて記念式典、講演会、祝賀会を開催し、鎮魂と恒久平和の祈りを捧げました。




2011年3月11日の東日本大震災発生に対し、オーストラリアは迅速な人道的対応を行いました。オーストラリア政府は震災発生の翌日、76名による都市捜索救助隊を宮城県南三陸町へ派遣しました。政府はさらに、日本赤十字社の緊急支援を通じて1000万豪ドル相当の寄付を行ったほか、オーストラリア空軍C-17輸送機による500トン以上の必要物資や、救援活動を支援するための日本の要員や車両の輸送にあたりました。当時のジュリア・ギラード首相は震災からわずか1か月後に南三陸町を訪問し、被災地を訪れた最初の外国首脳となりました。この訪問は、困難な時期に日本への連帯を示す象徴的な出来事でした。
2026年3月11日で、東北地方を襲った震災からちょうど15年が経過しました。オーストラリアはこの間、東北地方の復興に寄り添う揺るぎないパートナーであり続けました。豪日交流基金は100万豪ドルを越える助成金を通じて、地域主体の数多くのプロジェクトを支援してきました。移動図書館の寄贈や、福島県に避難した児童向け幼稚園遊具の贈呈、南三陸町中学生を対象にしたオーストラリア短期留学プログラム、児童向けの参加型舞台芸術ワークショップなどがこれに該当します。また、オーストラリアのジャズ音楽家グループは10年以上にわたり毎年岩手県を訪れ、学校でのワークショップや地域での公演を実施しています。これらの取り組みは、人的・文化的交流を一層深めるとともに、東北地方の長期的なレジリエンス強化に貢献しています。

「オーストラリアと日本は、東日本大震災という困難な時期に団結し、プロ意識や共感、友情、信頼を軸にした永続的なつながりを構築しました。」





オーストラリア学会は1989年に、教育、研究、関係研究者相互の協力を促進し、オーストラリアに関する学際的研究の促進をはかることを目的として設立されました。会員の研究領域は、政治、経済、社会、教育、文化、外交、地理、芸術、文学など多様な分野にわたっています。具体的には、次の事業を行っています。
本学会では、学会誌『オーストラリア研究』を年1回発行し、学術的な成果を広く共有しています。また、毎年6月を原則として2日間にわたり年次大会が開催され、シンポジウム、セッション、ワークショップなど多様なプログラムで構成されています。さらに、ニュースレター「オーストラリア学会報」を年3回発行し、会員の最新研究や訪問研究者情報、地域研究会や特別カンファレンスの活動報告、出版物情報などを掲載しています。会員間の情報交換や学際的な交流を促進するため、大阪と東京で地域研究会を開催し、非会員も積極的に招いています。2025年6月時点での会員数は約160名です。
在日オーストラリア大使館、また豪日交流基金(AJF)による支援、助成を受けており、2025年には第36回大会を慶応大学日吉キャンパスで実施し、オーストラリアから招待されて参加した研究者の発題を含め、多様な研究成果が発表されました。
2026年は静岡県立大学草薙キャンパスにて第37回大会が開催されます。本大会のテーマは 「Diversity of Growing Multicultural Societies(成長する多文化社会の多様性)」とし、地域社会における多様性、包摂、支援実践といった現代的課題を視野に入れつつ、日豪両国の社会のあり方について考える機会を設けます。
また、2027年7月には、オーストラリア日本研究学会(JSAA)との共催による研究大会の実施を予定しており、これはオーストラリアと日本の学術交流における新たな協力の章を刻むものとなります。

本団体は、オーストラリアをこよなく愛し、知り尽くす者によるスペシャリスト集団です。




オーストラリアは、きわめて多様なアボリジナルおよびトレス海峡諸島の人々の故郷であり、彼らはそれぞれの文化、言語、信条、そして慣習を有しています。これらの伝統は、6万5000年以上にわたり継続して受け継がれてきた、世界最古の文化です。
オーストラリア先住民の人々はこの数十年間、日本の先住民や一般社会を含む国際コミュニティと積極的に交流し、文化的知識、創造性、そしてイノベーションを世界中で共有しています。1965年に日本で初めてアボリジナル・アートの展示会が開催され、1970年にはAboriginal Theatre Foundation(アボリジナル・シアター財団)のパフォーマーたちが、大阪で開催された日本万国博覧会に出演しました。その中には、後に国際的に高く評価される俳優・アーティストのデイビッド・ガルピリル氏も含まれていました。日本の観客はその後も、先住民アーティストたちが手掛ける作品を受け入れ続けてきました。中でも特に知られているのが、2008年に大阪と東京で開催された「エミリー・ウングワレー展 アボリジニが生んだ天才画家(Utopia: The Genius of Emily Kame Kngwarreye)」です。
直近では、メルボルン大学やオーストラリア国立大学と北海道大学の関係に代表されるような学術交流が進み、教育機関の繋がりが一層強化されています。ジャスティン・モハメド先住民担当大使は、先住民の文化、経済と協働の精神を力強く発信した2025大阪・関西万博のテ・アラティニ先住民ウィークに合わせて来日しました。期間中、両国の先住民シェフは共に料理を披露し、両国に共通する伝統や現代的な創造性、そして日豪先住民の友好と協力関係の強化が示されました。

「日本への訪問を通じて、両国がさらに深く交流するための可能性を示すことができました。東京や万博会場で、産業界のリーダーの方々とお会いし、先住民関連企業にとっての新たな貿易・投資の機会について意見交換を行いました。また、北海道ではアイヌ民族の人々とお会いする機会もあり、互いの民族の文化や伝統を共有するとともに、こうした関係を今後さらに強化していくことの重要性も確認しました。」



豪日交流基金(AJF)は、1980年初頭にオーストラリアのサーフライフセービングを日本に紹介するうえで重要な役割を果たしました。日本には独自の海岸安全システムが存在していたものの、政府と地域社会に支えられた、コミュニティー主体のボランティアによるライフセービングという概念は新鮮なものでした。3年間にわたって相互訪問が行われ、オーストラリアのライフセーバーがレスキュー器材と共に来日し、海岸パトロール技術の実演を行ったり、日本の関係者が渡豪し、ライフセービングのインフラや文化について学びました。
こうした早期の交流は、日本ライフセービング協会(JLA)創立の基盤を築くとともに、ライフセービングが日本で認知され、社会的に評価される活動として確立されることに大きく寄与しました。安全に関する取り組みにとどまらず、この交流プログラムは奉仕、チームワークと海への理解といった共通の価値観を通じて、両国の若いライフセーバーたちを結ぶ文化的架け橋となりました。
現在もこの交流は活発に行われています。サーフライフセービングオーストラリア(SLSA)とJLAの間で覚書が締結され、訓練、競技、そして教育における継続的な協力関係が正式に制度化されています。1999年に締結された下田ライフセービングクラブとマルチドーサーフライフセービングクラブの姉妹クラブ提携を始め、長年にわたる交流は現在も活発に続いています。毎年の相互訪問や合同パトロールを通じて、深い友情と相互学習が育まれています。
2026年には、AJFの助成金を活用した新たなライフセービング交流プロジェクト「Next Wave Japan-Australia Lifesaving Exchange Program」が発動し、JLAとSLSAのさらなる連携を後押しします。このプロジェクトは次の世代の育成やライフセービング技術の強化に加え、40年以上前に始まった文化交流の伝統を継承・発展させるものです。

豪日交流基金のご支援のおかげで、今日の日本におけるライフセービングの礎が築かれ、その後も着実に発展を続けることができております。人材交流や知識・技術の共有といった多面的な支援があったからこそ、日本独自の発展を遂げながらも国際的な視野を持った活動へと成長することができました。これまで積み重ねられてきた取り組みの一つひとつが、現在の安全な水辺環境の創出や人材育成につながっていることを、改めて実感しております。こうした長年にわたる多大なるご支援に対し、心より深く感謝申し上げますとともに、今後もそのご期待に応えられるよう、一層の努力を重ねてまいります。




工芸技術には、国家のアイデンティティを形作る物語や伝統、技能が宿っています。それゆえ、文化交流において非常に力強い媒体となっています。オーストラリアと日本の芸術家は、陶芸や織物、木工品といった手工芸品を通じて、意味のあるつながりを築き上げ、互いの創造的な世界を豊かにしてきました。
オーストラリアと日本は、活気に満ち、発展し続ける文化的・芸術的パートナーシップを共有しています。陶芸を始めとする工芸技術は、この交流の中心的な役割を果たしてきました。戦後、日本の陶芸家は指導のためにオーストラリアへ渡り、現地の陶芸スタジオに影響を与え、オーストラリア現代陶芸の基盤を築く上で大きく貢献しました。
スウェン博江氏は、この交流史において最も影響を与えた人物の1人です。先駆的な芸術家として知られるスウェン氏は、自身の作品と人生を通じて、異文化コミュニケーションの精神を体現し続けています。1934年に生まれたスウェン氏は、当時数少ない女性陶芸家の一人でした。オーストラリアではすでに民藝の工芸が広く知られていましたが、日本の現代陶芸美学を伝えたのは、1968年に移住したスウェン氏でした。
それから半世紀にわたり、スウェン氏はオーストラリアの陶芸界に大きな変革をもたらす存在となりました。日本的感性とオーストラリアの影響を融合した彼女独自の芸術観は、新鮮かつ魅力的な視点をもたらし、数世代にわたり陶芸家に影響を与えてきました。スウェン氏は約25年間、オーストラリア国立大学美術学部で教鞭に立って多くの学生を指導し、オーストラリアの現代工芸分野の発展に貢献しました。
スウェン氏の実績は、日本とオーストラリア両政府から表彰を受けるなど、最も高いレベルで評価されています。オーストラリア、日本、そして世界各地の公的・私的コレクションに収蔵される彼女の作品は、工芸文化の懸け橋となり、創造的な交流を育む力を秘めています。在日オーストラリア大使館では日豪の文化交流におけるスウェン氏の貢献を讃え、彼女の作品を展示しています。
2025年の帰国以来、スウェン氏は工芸を通じて日豪交流を促進し、長年にわたり続く両国間の対話を一層豊かなものへと発展させています。彼女のライフワークは、手工芸は単なる芸術作品ではなく、文化や繫がり、そして共有する伝統の伝承者であることを力強く伝えてくれます。そして京都で92歳の誕生日を迎えた現在、亡き夫コーネルが遺した和紙に施したろうけつ染め作品(dye paintings)の再生に取り組み、生涯現役の芸術家として歩み続けています。

57年間のオーストラリアでの陶芸活動は私の人生の核をなす、充実した素晴らしいものでした。そして、これから日本でのアーティスト生活が楽しみです。




オーストラリアと日本は、補助犬という社会で最も献身的な働き手に関連した長期的なパートナー関係を築いています。盲導犬や介助犬の存在は、両国の社会福祉制度の強化をサポートすると共に、その過程で喜びやふれあいを私たちに与えてくれます。
この分野での交流の歴史は、豪日交流基金が当時の「Common Interest Program(共通の関心プログラム)」を通じて、盲導犬インストラクター間の交流の支援を開始した1980年代までさかのぼります。こうした初期のつながりは、日本への新たな訓練法の導入を促し、両国の盲導犬団体における長期的な関係の糸口となりました。日豪の組織は数十年にわたり、現地、国際社会両方のレベルでお互いの活動を支え合い、専門知識の共有や信頼、犬への継続的愛情を軸にしたコミュニティを形成するに及んでいます。
こうした協力は近年、日本介助犬協会を通じてさらに拡大しています。同協会はオーストラリアの組織との積極的な提携を通じて、介助犬の繁殖や訓練についての高度な方法を学んでいます。これらの交流により、日本はオーストラリアの最良慣行を通じて、現代的な介助犬教育や普及活動の国内推進を推し進め、身体的障がいを持つ人々をサポートする力を高めています。その成果は、移動時の支援が必要な人々へのより包摂的な環境の実現、こうした人々の暮らしに欠かせない補助犬への訓練の向上という形で表れています。
このパートナーシップは、単なる技術面でのノウハウにとどまりません。その中心にあるのはアクセスの向上や尊厳、独立の実現に向けたコミットメントの共有です。両国はこれからも認証プロセスや福祉の基準、社会への啓蒙活動についての知見を分かち合い、補助犬とそのサポートを必要とする人々が、最高レベルの支援を受けられるよう努めていきます。

豪日交流基金の支援により、補助犬のサポート体制で新たな一歩を踏み出すことができました。





オーストラリアと日本は、スポーツを通じて深く、そして継続的につながっています。日本各地で行われている、通称「フッティー」または「オージー・ルールズ」として知られるオーストラリアン・ルールズ・フットボール(AFL)でも、その友好的なライバル関係が息づいています。AFLは国内で最も人気のあるスポーツの一つであり、オーストラリア独自の文化を体現しています。
AFLは18人制のチームで、楕円形のボールを用いて楕円形のフィールド上で試合が行われます。両チーム合わせて36人がプレーする非常にダイナミックなスポーツです。男女問わず、多くのファンに親しまれています。年に一度のグランド・ファイナル(決勝戦)はオーストラリアで最も注目されるスポーツ・イベントの一つであり、地元のフッティー・クラブは数えきれないほど多くの地域のボランティアによって支えられています。
AFLが日本に紹介されたのは1986年。オーストラリアの著名な2チームがエキシビション・マッチを行うために来日し、2万5000人の観客を魅了しました。この試合をきっかけに日本での関心が高まり、のちに国内リーグが発足し、現在では6つのチームと女子日本代表チーム「ミライズ」が活躍しています。
日本でのAFL普及の中心的存在となっているのが、日本オーストラリアンフットボール協会(AFL JAPAN)です。国内リーグの運営、草の根レベルでの競技参加の促進、国際大会に出場する日本代表チームの支援など、多岐にわたる活動を行っています。また、2025大阪・関西万博のオーストラリア・パビリオンでも、デモンストレーションやワークショップを通じてAFLの魅力が発信されました。
現在、AFLのプロ・リーグでは日本にルーツを持つ選手が2名活躍しています。ゴールドコースト・サンズ所属のアレックス・デイビズ選手は、2025年シーズンにクラブ史上初となるファイナル進出に貢献しました。セントキルダ・セインツ所属のミッチ・オーウェンズ選手も数多くのゴールを決め、チームの主力として存在感を示しています。

「AFL JAPAN は、AFLを単なる競技スポーツとしてだけでなく、人と人を繋ぎ、文化交流を促し、業界の発展にも寄与するプラットフォームだと捉えています。私たちは、その価値と魅力を国内で戦略的に発信していくことに努めています。日本の若いアスリートがAFLに挑戦し、輝ける未来を信じて、私たちはこのスポーツのユニークな価値をこれからも発信し続けます。」




新潟県十日町市浦田地区にあるオーストラリア・ハウスは、大地の芸術祭の里の懐に抱かれた日豪交流の拠点です。
初代オーストラリア・ハウスは2009年に誕生しました。そこでは地区の住民やサポーターとの協働によってアーティスト・イン・レジデンス・プログラムが活発に展開されていました。この建物は、2011年3月12日の長野県北部地震によって全壊しましたが、日豪から再建を望む声が高まり、オーストラリア・ハウスは再生されることになりました。
2代目で、現在のオーストラリア・ハウスは、日本の震災からの復興の象徴として、防災性や環境への配慮がなされた建物となりました。そして安藤忠雄氏(建築家)を審査委員長とする国際コンペティションにより選定されたオーストラリアの建築家のデザインに基づき、日本の建築家、十日町市、地域住民、オーストラリア政府などの力を結集して建設され、2012年の大地の芸術祭の中心的な作品の一つとしてオープンしました。また恒久作品としてオーストラリア先住民にルーツを持つアーティスト、ブルック・アンドリューの「ディラン・ンラング-山の家」が設置されました。
建物は2013年に、オーストラリア建築家による優れた海外プロジェクトに贈られるヨーン・ウッツォン賞を受賞しています。アーティスト、キュレーターや学生が滞在・制作・発表を行うレジデンシー、オーストラリアの情報発信基地、日豪の様々なコミュニティーの交流施設といった多様な機能を持ちながら、オーストラリア・ハウスは人々の対話の場を構築・提供しています。

オーストラリア・ハウスに滞在するアーティストを地元の人が受け入れ、「うちのごはんも喜んでくれて、こっちまで心が温かくなったよ。こんな交流、これからも続けたいね」と話していました。



教育は日豪関係において、最も力強い役目を果たすと共に、人的交流の中心的役割を長いこと担ってきました。学校提携から大学レベルの研究協力に至るまで、こうしたパートナーシップは相互理解を深め、国際感覚を育むと共に、長期的な人的・学術的交流を生み出します。
オーストラリアは日本の高校の修学旅行先として、最も人気のある国です。また日本との姉妹校提携が多く、その数は約640に及んでいます。こうした提携は高等教育レベルでも同様で、両国の大学間には700を超える研究・開発分野の協力協定が存在します。その多くは、共同学位やダブルディグリー制度を認める戦略的な提携関係の形を取っています。
こうした継続的な関与の優れた一例として挙げられるのが、1978年から存在している東京大学のオーストラリア研究プログラムです。東京大学は半世紀近くにわたり、オーストラリアの学術専門家を継続的に受け入れてきました。
このオーストラリア客員教授プログラムは現在、東京大学駒場キャンパスにあるアメリカ太平洋地域研究センターを拠点としています。毎年オーストラリアの専門家が一名招聘され、専門分野に関するコースで学生の指導を行います。担当する科目は様々ですが、学士課程のコースではオーストラリアの文化や歴史、社会を扱う場合が多く、地域や国際社会におけるオーストラリアの立場を広く理解するためのサポートを行います。
豪日交流基金が助成するこのプログラムにおいて、招聘された客員教授は、両国間の懸け橋となって知的活動や共同研究、学術交流を推し進めるなど、教室以外でも大切な役目を果たします。また、オーストラリア学会のような組織を通じて日本の学術関係者と力を合わせ、国内のオーストラリア研究の進展を支える活発なネットワークの形成に貢献します。
こうした学術交流は長年にわたって、新たな研究パートナーシップやスタッフ交流、長期的な組織間交流を実現させています。こうした交流から、教育分野での外交が、二国間関係の強化や次世代リーダーの育成を通じて、いかに両国を豊かにしているのかがわかります。

教育における絶え間ない卓越性の追求とその恩恵の社会的還元が、オーストラリアと日本をつないでいます。




全国食支援活動協力会(MOWJ)とミールズ・オン・ホイールズ南オーストラリア協会(MOWSA)は、1980年代の交流開始以来、両国の高齢者支援に関する知見を共有しながら、緊密な協力関係を維持してきました。
1984年にオーストラリア大使館員の親族が来日した際、MOWSAと同様の高齢者向け配食サービスに対する関心から、世田谷区にある老人給食協力会ふきのとうが行っていた昼食会を訪問しました。ふきのとうは、そもそもは1970年代に子育て中の母親たちが子供の遊び場の安全確保を目的として始めたボランティア団体でしたが、その後、地域で孤立しがちな高齢者を支えるための会食会を行う組織へと発展していました。
この初期の交流は、当時ふきのとうの代表を務めていた平野真佐子氏の関心を引きました。そして平野氏の働きかけにより、豪日交流基金の支援を受けて、1985年にMOWSAの主要メンバーを招いたシンポジウムが開催されました。このシンポジウムで行われたディスカッションが、後のMOWJ設立の基盤となりました。
2024年は、MOWSAとMOWJの協力開始から40周年にあたりました。この年MOWSAの代表団は豪日交流基金の支援を受けて来日、日本の政府関係者との面会やラウンドテーブル・公開シンポジウムの参加のほか、覚書の改定を行いました。
この長年にわたる交流は、現在も双方に大きな利益をもたらしています。MOWJは、社会的弱者である子供や高齢者の食料不安に対応する新たな取り組みを進めており、MOWSAは介護ケアが変化する中で、高齢者の孤独や孤立の軽減に重点を置いています。
食事の場を共にするという一見ささやかな行為には、人と人との深いつながりを育む力があります。MOWSAやMOWJのような団体の継続的な協力関係は、地域社会の中で最も支援を必要としている人々をより力強く支えることにつながります。

これからも日豪のMOWが連携しながら、社会課題の解決に向けて世界の食支援活動(MOW、他)団体とつながりたいと考えております。豪日の50周年を心よりお祝い申し上げます。







2 koalas sent from State of Queensland to the Hirakawa Zoological Park
Photo Courtesy of the Hirakawa Zoological Park, Kagoshima City




4 Koalas at Taronga Zoo in Sydney waiting to travel to Japan (two each for Tama Zoological Park and Higashiyama Zoological and Botanical Park)
Photo Courtesy of the NAA: A6135, K3/10/84/13, 14, 15, 16
オーストラリアを代表する野生動物のコアラやクオッカは、友好のシンボルとして親しまれ、長年にわたり日本とオーストラリアの友好の懸け橋として活躍してきました。
オーストラリアのみに生息するコアラは、日本の人々を何十年にもわたり魅了してきました。1984年のコアラの初来日は、日豪関係にとって重要なものとなりました。両国間の姉妹州・姉妹都市提携が拡大する中、当時のバリー・コーエン オーストラリア内務・環境大臣の主導により、最初のコアラが日本へ寄贈され、日豪間の結びつきの強化が図られました。
これによりその年、名古屋市の姉妹都市であるシドニーから東山動植物園へ、東京都の姉妹州であるニューサウスウェールズ州から多摩動物公園へ、そしてクイーンズランド州から鹿児島市平川動物園へ、計6匹のコアラが送られました。
各動物園はコアラを迎えるために、ユーカリの栽培、施設の整備、専門的な飼育技術の習得など、数年かけて準備が行われました。多摩動物公園では、東京で育てたユーカリの葉をオーストラリアへ持ち込み、コアラが食べるかどうかを試す検証を行いました。
近年では、「世界一幸せな動物」として知られるクオッカも、日本に住むオーストラリアの動物たちの仲間に加わりました。2020年に埼玉県こども動物自然公園の開園40周年を記念して、フェザーデール・ワイルドライフ・パークからクオッカが送られました。
同園はすでに多くのオーストラリアの動物を飼育していましたが、そこに新たにクオッカが加わりました。現在、クオッカを飼育しているのは日本でこの園のみです。

多摩動物公園のコアラ飼育は開始までに多くの苦労がありました。私たちは長年にわたり飼育管理を続けるだけでなく、野生のコアラの大切さも伝えてきました。これからもコアラの未来を守る取り組みを続けていきます。





オーストラリアの国立科学技術センター「クエスタコン」は、同国の建国200周年を記念して1988年に設立されました。クエスタコンの開館は、オーストラリアの科学教育における大きな節目となっただけでなく、日本との国際協力を象徴する重要な出来事でもあります。日本政府及び日本企業は、キャンベラに建設されたこの専用施設に対し、建設費の半額(約10億円、約1000万豪ドル)を拠出しました。この寛大な寄贈は日豪共同200周年プロジェクトの一環として行われ、1976年に署名された日豪友好協力基本条約に基づく日豪関係の強化を象徴するものでした。日本の参加は、両国の教育、イノベーション、そして科学普及活動に対する強い思いを示すものです。
クエスタコンは、その後もこの永続的なパートナーシップを尊重し、日本で複数回にわたり「サイエンスサーカスツアー」を実施しています。2014年には開館25周年を記念して、2011年東日本大震災の被害を受けた東北地方の4つの自治体を訪問し、参加型の科学体験を提供するとともに、教育を通じた地域の復興支援に取り組みました。2018年と2023年にもツアーを行い、サイエンス講座や実験、情報交流を通じて協力関係を一層深めました。直近では、2025大阪・関西万博のオーストラリア・パビリオンに参加し、長年続く科学を中心とした国際協力のプログラムをさらに発展させました。
日豪科学関係は、幅広い分野で発展し続けています。はやぶさミッションや太平洋での海洋研究、ロボット教育プログラムなど、多くの共同イニシアティブが発足しました。2025年には、1980年に締結された日豪科学技術研究開発協力協定が45周年を迎えました。ノーベル物理学賞受賞者ブライアン・シュミット博士を含む多くのオーストラリア人研究者が、日本学術振興会を通じて研究活動を進めてきました。この協力は科学的発見を促すだけでなく、両国の戦略的パートナーシップを強化し、科学が外交、イノベーションと共通の進展に向けた力強い架け橋であり続けることにも貢献しています。

「クエスタコンは、日豪の友好関係を象徴する継続的なシンボルです。日豪のパートナーシップは、クエスタコンが国内外の科学コミュニケーションやエンゲージメントの拠点として成長するうえで、重要な役割を果たしてきました。」




姉妹都市関係に代表される地方自治体による外交は、長期的な市民交流、文化交流、草の根レベルでの協力を通じて、日豪関係を力強く支えています。こうした地域レベルのつながりは、市民、学校、文化機関、地方自治体の間に持続的な友情を育み、国家間外交を補完する重要な役割を果たしています。
現在、日本とオーストラリアの間には、107の公式な姉妹都市関係があり、これは両国にとって最大規模のネットワークの一つです。教育、スポーツ、芸術、環境、青少年交流など、幅広い分野で築かれてきたこれらの関係は、相互理解を深め、次世代に向けた新たな可能性を生み出すうえで欠かせない存在となっています。
最も初期かつ象徴的な例の一つが、千葉県松戸市とオーストラリア・ビクトリア州のボックスヒル市(現在のホワイトホース市)との関係です。この交流は1958年、松戸市の中学生が東京のオーストラリア大使館にユーカリの種を送ってくれるよう頼み、返礼としてイチョウの種を贈りたいと手紙を書いた、ささやかでありながら心のこもった行動から始まりました。このやり取りにより、松戸市にはユーカリが植えられ、キャンベラの植物園ではイチョウが育つこととなりました。この善意に満ちた交流が契機となり、1971年に正式な姉妹都市提携が結ばれました。
より近年の例としては、1993年に提携したキャンベラ市と奈良市の姉妹都市関係が挙げられます。この関係は30年以上にわたり、年次フェスティバル、文化使節団の往来、教育交流、そして奈良平和公園やキャンベラ―奈良 キャンドル・フェスティバルといった公共アートの協力事業を通じて発展してきました。特にキャンドル・フェスティバルは、毎年多くの来場者を集める行事となっています。このパートナーシップは、地方自治体が地域社会に深く根ざした、持続可能な国際関係を築く好例となっています。
これらの姉妹都市関係は、日豪関係における地方自治体による外交の価値を明確に示しています。市民同士を直接結びつけることで、相互の信頼や学び、長期的な協力関係が育まれ、日豪の友情は社会のあらゆるレベルで着実に広がり続けています。

今年は、両市が姉妹都市を提携して55周年です。これからも市民レベルの交流を通じてお互いを友として、次世代へ受け継がれる両市の持続的発展につながることを願います。
